藤原恒雄とは、日田の狩人だった人物が心を入れ変えて、英彦山の神へ

 創建・伝承
英彦山は古代より神体山として信仰されていたとみられる。当社の開基については次のような伝承がある。継体天皇25年(531年)、北魏の僧・善正(ぜんしょう)が英彦山山中で修行中に猟師の恒雄(こうゆう、のちの忍辱〈にんにく〉)に会い、殺生の罪を説いた。しかしそれでも恒雄は猟を続け、1頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現して白鹿に檜の葉に浸した水を与えると、白鹿は生き返った。それを見た恒雄は、この白鹿は神の化身なのだと悟り、善正の弟子となって当社を建立したという。

仏教伝来が公伝より早く英彦山に・・・・

 仏教公伝は538年である。この英彦山には531年に仏教が入って来ている。
 中野幡能氏は、英彦山修験道の起源については中国から来た善正が開山しているが、「彦山流記」(彦山の最古の書物)は善正の事はいっさいふれていない。つまり恒雄が彦山修験道を開いた。
※中野幡能 
日本の歴史学者。大分県宇佐生まれ。1943年東京帝国大学文学部宗教学科卒。大分県立教育研究所副所長、61年新設の大分県立芸術短期大学教授、68年「八幡信仰史の研究」で東京大学文学博士。83年定年退官、名誉教授。91年秋勲三等瑞宝章受勲。西日本文化賞受賞。

恒雄は朝鮮半島の檀君神話の檀君の父である「恒雄」(かんゆう)

 
   中野幡能氏は日本の修験道霊山は殆んど修験道開山として役小角を祀っている。ただ英彦山だけは、檀君神話の影響下に檀君を善正上人として、修験道開山に供養しているのであります。

 以上のことから、英彦山開創については近世の書には、役小角開創などの諸説がいろいろと出てきておりますけれど、私は白山神といい、弥勤信仰といい、英彦山開創の人、藤原恒雄は実は壇君神話における桓雄であり、藤原を付会させたのはかなり後のことである。

 

恒雄は・・・・どっち

    朴成 壽氏(韓国大学院教授)

 ちなみに、こちらの資料館に残っている「恒雄(桓雄)と善正法師」の絵で、どちらが桓雄かといいますと、弟子のほうではなくて、中央に座ってぃる人物(善正)が木の葉  (藤葛) を着物にかけていますので、私はこちらの姿が桓雄だと思います。


勝者、藤原氏は恒雄という蘇我系を抹殺した。そして恒雄に藤原の苗字をつけて 消し去った

 さて話は変わり。日田の造領記には、驚いた記述がある。藤原恒雄は「豊国法師」であると。豊国法師とは、蘇我の馬子が用明天皇が危ないときに呼び寄せている。豊国法師とは仏教と医術が折り重なったものであると言われている。
 推古天皇が蘇我馬子の歌に和したものと伝える歌が「我が蘇我よ、蘇我一族の君は、馬ならば、日向の若駒」という歌を・・・。私見であるが、馬子の父の稲目は出所がはっきりしていない。蘇我氏と言えば仏教を推し進めてきた家柄である。その蘇我と豊国法師の姿が折り重なってくる。蘇我系の葛城氏が日田に大きく関わっているのである。
 神武東征に日田の葛城直が同行した、また、日田国造りの鳥羽宿禰は葛城の祖と文献に記述されている。蘇我と葛城は同じ同族である。
 彦山を創建した3年前になんと磐井の乱が起きているのも見逃せない。風土記では豊国の山奥で死んだとされ、息子は命を救われている。しかし、『日本書紀』は磐井の乱については、内容が不信だという話も多い。
 中国の文献にの『旧唐書』倭国日本伝には、倭国と日本国は別種であると記述される。また「豊国に秦王国が筑紫の東にある。10余国経て海岸に達する」と記述している。
 この磐井は実は蘇我系の人物で秦氏の東遷があったのではないだろうか。京都には秦河勝という九州から東遷した氏族だった可能性は強い。
 秦氏の都は日田で、藤原恒雄の本当の姿は秦氏(葛城・蘇我)ではなかったか。想像の域はでないが、日田には卑弥呼~蘇我氏までの王権が存在してかもしれない。
 秦氏の象徴が「鷹」であって、日田に鷹が飛んできて日田を創世した神話や、藤原恒雄が彦山を創する時も三羽の鷹が神となって現れて来た記述。
 大和岩雄氏(古代史研究・大和出版社長)「。朝鮮の始祖降臨神話の主人公が、彦山伝承では語られていたが (但し、「藤原恒雄」と日本人化してはいたが)、それが、記・紀神話の主人公に変えられて、天忍穂耳命(天照大神の子ども=あめのおしほみみ)となり、香春神社の祭神の忍骨命となったのである」という大胆な仮説を著書で書き示している。」
 田川の香春には新羅の神(都怒我阿羅斯等)が舞い降りた伝承も色濃く残り、彦山の神と香春の神は同じだと大和氏は言う。そしてその神が「日田の狩人である藤原恒雄」
 私見であるが、恒雄の子孫(聖徳太子・蘇我入鹿)は最終的に藤原氏によって叩き潰されたと感じる。桓雄はもともと蘇我氏であり、勝者の力によって、後世、敗者を抹殺するために藤原という冠を付けられたと思う。
 馬子が「日向の駒」であるという意味も、九州から操られていた人物で、その操っていたのが桓雄という卑弥呼の時代から九州王朝を守って来た一族を意味している。6世紀の人物だと思われるが、実は古代からの九州王朝の全体を意味した人物。

 彦山には「天の忍穂耳命」が祭神され、天照大神の子どもであるから、日子山。日子山には天照大神の子が祭神されている。日子山(彦山)の意味は天照大神であり、天孫降臨の時にも天の忍穂耳命が初め天孫降臨する秦(はた)は日田(ひた)と同じ意味を持つと言って私はいつも相手にされないけど。
 辞典を見ると「陂陁(ハタ、ヒタ)」、「陂陀(ヒダ、ハダ)」※陂(音読み)「ヒ」「ハ」。ハタははヒタに転訛するのである。 

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